軽口は主に2人組で披露される話芸の一種

別称は「掛合噺」「掛合茶番」等
漫才や喜劇の源流といわれる。

江戸時代末期に京都四条河原町、大坂天満宮の神社の境内に舞台を設けひとりでに歌舞伎、芝居の物真似演じられた起源。

その後舞台芸になり寄席で俄の開幕(前座)として演じられた。

2人が正座し簡単な小道具、衣装を身に付け謎かけ問答や知恵比べ問答歌舞伎、芝居の物真似で人気を取っていた。

後に芸として俄から独立。1892年8月に桂梅團治・桂篤團治のコンビが「軽口」の看板を上げ、落語の演目を演じ分けるなど人気を博す、その後も桂次郎坊・太郎坊、秋の家稲子・稲八、鶴家團七・團鶴等が人気を博す。

その後、音曲万歳、しゃべくり漫才の登場で人気も落ちる。

 

落語は日本の話芸の代表的なもので

咄(はなし)(噺)の末尾に「落ち」(サゲ)をつけることからこの呼称が生まれた。

落語家が和服を着て1人で高座に座り、扇子と手拭(てぬぐい)を用いてユーモラスな表出と、しみじみと聴かせる演出で聴衆を楽しませる。

1687年(貞享4)版『正直咄大鑑(しょうじきばなしおおかがみ)』に「それはなしは、一が落ち、二が弁舌、三が仕形(しかた)」とあるのは、落語の基本を示している。

のちに、この純粋な話芸の形式、演出に変化が生まれ、芝居噺、音曲(おんぎょく)噺、怪談噺、人情噺、三題噺などが出現したが、これらには落ち(サゲ)のないものも多い。

落語は初めは「はなし」とよばれたが、延宝(えんぽう)・天和(てんな)・貞享(じょうきょう)(1673~88)のころ上方(かみがた)を中心に「軽口(かるくち)」「軽口ばなし」といわれ、明和(めいわ)・安永(あんえい)(1764~81)のころには江戸小咄(こばなし)の流行とともに「落しばなし」とよばれるようになった。

落語を「らくご」と音読することは江戸時代後期に知識人の間で行われたが、一般的には「落語」と書いても「おとしばなし」と読んでいた。

「らくご」という呼称は、明治20年代から普及し始めたが、今日のように広く一般によばれるようになったのは、ラジオ放送によるもので、昭和に入ってからである。

落語の淵源(えんげん)は、遠く口承時代にまでさかのぼって推察することができ、「記紀」「風土記(ふどき)」に含まれる説話にその原始形態をみるのであるが、いわゆる「落ち」というものが歴然と現れるのは平安初期の『竹取物語』で、ここには同音異義の活用による滑稽(こっけい)が横溢(おういつ)している。

これはおそらく、上古から平安初期に及んだ「はなし」を業とする者たちの話し方技術の伝承を示すものであろう。

この系譜は、上代の語部(かたりべ)から中世の同朋(どうぼう)を経て、戦国時代の御伽衆(おとぎしゅう)、御咄(おはなし)の衆に及ぶ。

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